たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

神は死んだ。仏も先祖も。

自らがこうしたいという思いに従っていくのではなく、神だとか仏だとか先祖だとか知覚できないモノに頼ることが疑問に感じるようになった。


年明けの日本と言えば、神社に行き、参拝をしたり、おみくじをしたり、神に祈っているのだろう。あるいは、キリスト教では年末のクリスマスミサでしょうか。同じように神への賛美がある。
2015年を見ると。イスラム教過激派の一部がパリでテロをした。ここでも、やはり神が出てくる。神の命の下でテロをしている。

神の命に従って自分の運勢について思い馳せることと、神の命に従って人を殺めることがまったく同じ次元の話に見えてしまう。


ニーチェは「神は死んだ」と言った。
キリスト教観での信仰の否定、宗教は単なる弱者の傷の舐め合いにすぎない、という批判。
そして「神」が何であるのか、を語り始めると、そのイメージは人によって異なっている。元来「神」への敬いのために皆が教会に行き、同じ神にお祈りをしていたが、その統一された「神」が人によって変わってしまっていては、いったい何に対しての祈りなのか。
そういう解釈をしている。


まさにそのことを感じた。
嫌なことがあった時に、「あの時のおみくじで~だったから」と言うことができる。けど、それは自らが弱者であって現実を受け止められず、何かを原因にして逃げているだけにしか見えない。
そして、おみくじを木にくくりつけるたくさんの人がいるが、彼ら一人ひとりにとって神様が異なる。同じ神様に祈っていたはずなのに。



世界平和を願っている人がいるとして、その人が参拝するのは「神」である。一方で、その人が平和になってほしいと思う対象の一つが「神」の命で乱されている時点で、矛盾している。

きっと、そういうことを何も考えない人間にとってはどうでもいいのだろう。