たけちゅさん宅

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テレビCM崩壊と「質」について

2023年にテレビCMが崩壊するという予測がある。

この記事を見て、ふと思ったことだが。
2023年テレビCM崩壊 ー 博報堂生活総合研究所の暗示 | Unyoo.jp


モノを売るのではなく、売れるモノを作る必要性が高まるだけじゃないか、と思った。


テレビとネットの違いは、主体がどちらにあるか、という点にある、と思う。
テレビあるいは従来型の広告は、メーカーが主体としてユーザーに売り込む。
だから、本質的に売れる価値がなくても、あのメーカーだから、あるいは何度も見て気になったから、という理由だけで手に取ってくる。あるいは、競合商品があまり見ないものだから取るのを忌避することになっているだけではないだろうか。
しかし、ネットでの主体はユーザーにある。口コミサイト、blog、Youtuberなど、時にステマと呼ばれて炎上することはあるが。それでも、他のユーザーの寸評が一番の広告となるだけではないだろうか。(それゆえに、ステマではなくする方法が難しいのだが)

そして、その主体の変更によって、「広告」というものが代わるだけではないだろうか。


では、どうすればよいのか、という問いに答えてみたい。
会社の利益に関係しないユーザーを新商品会議の場に呼び、「売れるモノ」が何なのか、を考えることが大事になってくるのじゃないだろうか。主体となるユーザーを直接呼び寄せてしまえばいいだけではないだろうか。

競合に「情報」が盗まれる、という反論が出そうであるが、それは本当に「質」を求める場合には問題にはならないはずである。

なぜなら、将棋界の最高峰棋士羽生善治があげられる。
将棋では勝負が決した後に、検討を実施する。どの手が良かったのか、あるいは悪手だったか。そしてどういう変化があったか、を検討する。この時、研究している手についてはオープンにはしない(競合=他の棋士には盗まれたくない)ものだった。
しかし、羽生先生は研究手をオープンにすることで知られる。それは、何よりも「将棋の質」にこだわっているからである。それでもなお、勝ち続けるからこそ羽生先生には価値が生じているわけである。

だから、本当に価値があることには、「情報」の盗みは関係ない。
盗まれることを恐れるのは、大した価値がない仕事をしている証左なのではないだろうか。
コンテンツに本質的に価値がなくても、とりあえず売ろうという主体をメーカーにおいた旧来の価値観でのみ成立する商売ではないのだろうか。