たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

アイデンティティ縊死あるいは遊牧。地元がないという話。

僕には「地元」がないことに、気付いた。
帰るところがない。いや、あるけど。
「マイルドヤンキー」の対としての「地元がない」である。


まず「地元愛」の象徴と呼んでも過言ではない「成人式」に、僕は行っていない。
いろいろとあって、地元の中学に進学してはいない。だから、小学校の卒業アルバムに写っていた同級生と、地下鉄で目の前に座っている名前も知らないおじさんは僕の中では等価値となっていた。あるいは、何を話せばいいのかわからないことに恐怖すら覚えていた。それはそうだろう、電車でよく知らないスーツのおじさんに話かける度胸も話題も僕はない。
つまり、僕のアイデンティティーはその地元には存在せず、それこそ隣町の「成人式」に参加しても問題ないくらいだった。


次に、改めて思い出したことである。
つい一年ほど前に「実家」に帰った際のこと。
そこを僕は「実家」とは認識できていなかった。
数年間、確かに、そこに僕は住んでいた。その痕跡もわずかながら見つかる。しかし、結局、帰ってきたとは思わなかった。むしろ、知人宅におじゃましたような、どことなく居心地の悪い感覚をほんのりと感じていた。
そして、帰省しようと思うことはない。帰省という言葉を知っているつもりであるが、それがどういう感覚なのか、僕には理解できない。


これを世間では「さみしい人間」と呼称するのかもしれない。
だが、そのことに一抹の寂しさすら感じないことに、僕には心があるのか疑わしい気持ちがむくむくと沸き起こってくる。さみしい、とはどういった感情なのだろうか。何かしらの喪失に対して、それを取り戻そうという欲だろうか。しかし、どんだけ感情をもっても、取り戻せないものは取り戻せないではないか、と思う。つまり、さみしいという感情は非生産的ではないか、と。


シーク教を知らないであろう大半の日本人が、シーク教徒とイスラームの人たちを理解できない程度に、僕にはそれが理解できない。知識として保有すれば存在がわかるのだが、だから何?と思うであろう。その程度にしか、僕には「地元」が理解できなくなっている。