たけちゅさん宅

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「丸パクリ」は必然となる教育について。

webronzaに掲載された以下の件を読んで思ったこと。
学位論文「コピペ当然」の風土をいかに変えるか - 高橋真理子|WEBRONZA - 朝日新聞社


本の学校教育そのものが「丸パクリ」を良しとしてしまい、件の「博士論文」を生み出したのではないだろうか。


「丸パクリ」は日本の歴史および教育現場で行われていることの二点から考察できる。

日本の歴史。特に近代史におけるターニングポイントの一つである文明開化では、西洋の制度・文化を『丸パクリ』したわけである。あるいは、平安京が長安を元に“倣った”(=丸パクリと同義)、カナ文字は漢字の崩し字(=丸パクリ)など、日本の文化は古来より『丸パクリ』を元にして構築されていると言われても仕方ない。
日本人は、丸パクリによって文化を構築してきたといっても過言ではない。この文化の元に行われているのが、教育であろう。

その教育について。
「掛け算の順序問題」かけ算の順序問題 - Wikipediaが典型例にあげられる。つまり、「正解」として示されたモノのみを良しとして、それ以外を間違いとする教育がまかりとっているのではないだろうか。その結果として、「正解」をいかにキレイに写すのか、が良しとされてしまう。その延長線上に、「丸パクリ」文化が生じるのではないだろうか。

宿題の答えを丸写しする子は、本当に多い。
しかし、なぜ「宿題」をしないといけないのか?という議論を経ずに、ただ押し付けられている。
これも、教育者が押し付けられた教育を受けて、そして上(文科省なり校長なり)からの指示を押し付けられている結果、生じている。

国全体として、疑問を持つこと、議論をすることを良しとされない。
教育においても、教員の言う通りに動くことだけが「良し」とされ、そうでない場合にはペナルティをかされる。このような教育がまかりとっている限り、「正解」の通りに動くことのみが良しとされてしまうのではないだろうか。


そもそも件の女史を悪役とするのは間違っている。日本人全体が、丸パクリの歴史の上で、丸パクリを良しとする教育を受けているだけでなのではないだろうか。