たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

戦車か、学校か。G型か、L型か。

マララ女史のノーベル平和賞スピーチを聞いた。
一言で言えば。戦車か、学校か。
なぜ戦車にお金は出せるのに、学校にお金は出せないのか、と。
このスピーチは社会全体を皮肉っているように思える。
つまり、目先に囚われているのではなく、本質を追求しろ、ということではないかと思う。


マララ女史のエピソードでグッときたものがある。
細かいことは忘れたが。なぜタリバンは人を傷つけるのか?に対して、「彼らはこれを読めないからさ」と本をさした子どもがいる話である。

タリバンの理想は、イスラーム国家の建設であろう。
目先(国家創造)だけ見れば、武器をとって、革命を起こすだけで達成されるはずだ。
しかし、本質(国家運営)を見ると、革命よりも統治がより大事なはずだ。
過去の為政者がどのように成功して、一方でどのように失敗したのか、それらの多くは書になっている。そして、そこからきっと学び取れることの方が、武器をとって戦うよりも有益なように思える。これは仏教史観寄りに思えるが。そもそもイスラームにおいても、必ずしも人を殺すことを良しとはしていないはずだ(コーランはその原典しか認められていないのと、アラビア文字を解読できないので、確認したことはない又聞きであるが)。
その書を読み、過去の反省から、未来を創造していくのが「学校」の役割である。


さて、現実には。戦車は作られる。
これは間違いなく「利益」になるからだ。
一方で、学校は作られることは少ない。
なぜなら、それは「利益」に繋がりにくいからだ。
しかし、この「利益」至上主義は、目先にとらわれてしまっているから生じうるものではないだろうか。この「利益」至上主義は、この死ぬまで労働を強いる社会に垣間見える。

マララ女史に倣い『教育』という観点で見たとき。
先に提言された「G型/L型大学」の構想。
これは戦車であって、学校ではない。
弥生会計ソフトだとか大型運転免許だとか、を即戦力のために身につけさせる、と。これはまさに目先にとらわれすぎている。それらは「今まさにこの瞬間」は大事なのかもしれないが、それは陳腐化した時にどうするつもりなのだろうか。例えば、原理を知っているか、知らないかだけでも大きく変わってくると思う。その原理という構想はL型には想定されていない。
「学校」というのが、過去を書から学び(=原理を学び)、そして未来を創造するものであるとすれば、その理念に反する提言であり、それは「学校」である必要性はない。
(※そもそも、それくらいの教育を外注しようという企業に発展の芽なんて絶対に生まれないと思うが。なぜなら誰も改良できないんだから。)

戦争か、学校か。
社会はきちんと考えるべきであると思う。
とは言え、そのスピーチを聞く余裕すら、目先に囚われた人間にはないのだろうが。