たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

加害者と被害者。

もっとフィロソフィーへの疑問を持ってほしい、と思っている。
その矢先に、神戸市小1女児遺棄事件が起き、そして幾多の報道がなされている。
そこで思ったことを綴る。



容疑者男性について、トラブルが絶えなかった。
そう主張することで、被害者だったと主張したいのだろう。

しかし、そこでなぜ問題解決をしなかったのか、と問いたい。
そこまでトラブルが起こっているのならば、解決をするのが本来やるべきことであり、今回の事件に対して「何もできなかった私たちが無能であることが何よりも問題だ」と考えるのがあるべき姿じゃないのだろうか。
(そこまで言えない、考えることを放棄して、容疑者が悪いと主張して、何も解決しないことがまさに無能の証左)

この誰かに押し付けて被害者面する構図、どこかで見たことあるな、と思った。
これは、スクールカーストと、そこで発生するイジメと同様ではないだろうか。
イジメっ子に自分もいじめられていた、と主張して傍観者を気取る中間層とまったく同じ。
いじめは見ている者も悪いという言葉をよく教員は述べるが、今回の事例に適用すれば、近隣住民すべてが加害者であると言える。なぜ誰も言わないのだろうか、と。

だが、誰が加害者であると断罪したところで何の解決もできるわけではない。
どうすれば殺人がなくなるのか、という命題に対して、殺人がそもそもしてはいけない行為であると考える点への疑問から思考実験をすることもまた大事なのではないか、と思う。
無条件に良いこと/悪いことを押し付ける教育がまかり通っているが、そこに疑問を持たせて考えさせることもまた大切なのではないか、と思う。

問題解決を急ぐと、即座に禁止に繋がるのだろう。
だが、もう少し考える余裕をもった方が良いのではないだろうか。最適解をすぐさま見つけるということはコンピューターで十分達成できるが、それらにはコードの上位にあるルールあるいはフィロソフィーへの疑問を呈することはきっとないし、今後ともないだろう。だが余裕をもって考えられるヒトだからこそ、そこでルールあるいはフィロソフィーそのものへの疑問を呈して思考できるのではないだろうか、と思う。



そもそも殺人はダメなのだろうか。

それを議論しない余裕のなさが何よりも、殺人事件に繋がっていくのではないだろうか。