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はたして子供が悪いのか。長崎被爆者暴言の件

修学旅行生5人、長崎の被爆者に暴言 横浜の中学校謝罪:朝日新聞デジタル


語り部(=被爆者)にとっては大きな事象であっても、子供にとっては単なる「過去」でしかない。

元寇関ヶ原の戦い戊辰戦争、日清・日露戦争、そして太平洋戦争と。
いずれも子供にとっては、まったく等価な「歴史上の出来事」に過ぎない。
その実感の伴わない歴史上の出来事に対して、実際に経験をした人間による「こういうことあったんだ~」と訓示めいた話をする。そこに「同じ日本人だから共感しろ」という想いがあるのだろう。
しかし、東京五輪ですら歴史上の出来事になりさがった*1のであるから、それ以前の原爆投下を含めた太平洋戦争に対して「共感を求める」ことはもはや無理なのではないか。

そして、共感のできない事象を、主体的な語りだけなされて、はたして理解できるのか。



一方で、なぜ子供が「死に損ないのくそじじい」と声を上げたのか。
その理由として、態度の悪い男子に「出ていけ」と言った。
そのことへの逆恨みではないか、と断じている。
そして、子供に反省文を書かせる。

しかし、それで何が解決できるのだ。


そもそも語り部にとっては最重要な「被曝」に対して、社会全体はまったくもって最重要視していない*2。大人は他者を傷つけない生き方をするから、声には出さない。
しかし、子供にはそのような思考はない。
だから、社会全体がまったく原爆投下を重要視していないところを、語り部が責めることが重要なのであって、子供を責めることにはいっさい何の解決にもならないのではないか。


口頭伝授は、史実の一次資料となるのだろう。
しかし、その伝え方を一方的に子供だけに押し付けてしまって、そこへの反発を露わにした子供だけを責める。弱者を責めているだけじゃないか。

手始めに、引率教員がきちんと語り部の口頭を受けて理解した上で、彼らが事前教育をなすべきだっただけ。なのに、なぜ引率教員がいっさい責められないのか、理解できない。悪いのは、大人だけであって、子供ではない。

そもそも引率教員ですら、その事象をきちんと理解しているのかですら怪しいじゃないか。




1:東京五輪を記念した体育の日が、法律で日時を勝手にいじられるようになった件
2:未だに原子力発電で右往左往している社会。(原爆投下、もんじゅ、等から、放射能を理解しているべき国民であるはずなのに、そもそも被爆者は何をしていたのだ、この半世紀)