たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

死刑の賛否を議論する社会が、何よりも「不健全」です。

犯罪者がなぜ犯罪者たるのか。
犯罪者/非犯罪者の境界は何なのか。
そこに興味を持って、犯罪史・犯罪心理学を独学で勉強している。

きっかけは「神戸連続児童殺傷事件」にある。
当時、小学3年生くらい。
お風呂に入っていた時に、「神戸の事件の犯人が逮捕された」という声にビックリしてすぐに出た覚えがある。そして、犯人が「中学生」であることに衝撃を受けた。

それ以来、「なぜ少年Aは人を殺したのに、私は殺せないのだろうか?」という疑問を、当時は語彙力が本当になかったので言葉にできなかったが、興味を持った。そして、語彙力がなく人に聞けなかったので、ミステリー小説ならわかるかも、とかなり読んだ。
中学校で「少年A 14歳の肖像」を読んで、衝撃を受けた覚えがある。

猟奇的な犯罪を犯す人間には、たいてい「生育環境」を原因としている。
一方で、「そういう環境の人もいるのだから、それは単なる個人の甘えだ」と語る人もいる。



さて、そういう大きな事件が起こると、死刑の賛否の議論が湧き起こる。

しかし。
死刑の賛否ではなく、コミュニティーの見直しを何よりも優先すべきではないか、と思う。

犯罪は、犯罪者Aが実行しているが、その起因はコミュニティーそのものにあり、そこにAが存在していなくても、犯罪者Bが実行していただろう。つまり、犯罪者Aの処遇ではなく、犯罪者Aを生み出したコミュニティー全体をきちんと是正することこそが何よりも優先されるべきではないのか、と。

犯罪のない社会を作ることを目指さずに、犯罪者をどう裁くか、にしか焦点が向かないのか。
それは、一定数の犯罪が起こることの是認である。犯罪が起こることを是認するからこそ、その犯罪を起こした犯罪者をどう裁くのか、にしか目が向かないのではないか。
そして、それは暗に犯罪者Aの犯罪行為を認めることと同値ではないか。
と、思うわけです。


法律を制定して、ある種の行為を犯罪だとしているのに、なお犯罪者が現れるのは法の執行の大失敗に他ならない。法律制定に関与した者から、それを遵守させるべき周りの人間すべてによる失態であって、そこをきちんと自省して行動に繋げることが求められるべき。

犯罪者だけが一方的に非難されるのは、間違っている。
守る必要性と同時に、守らせる必要性がコミュニティーには求められるべき。
その意識がないコミュニティーであれば、犯罪行為が起こってもしょうがないのです。
そして、また犯罪のみを非難するから、やっぱり犯罪は減らないのです。
コミュニティーそのものが何も変わっていないのだから。

それこそ、コミュニティー全体が「被害者面」して、加害者(犯罪者)のみを叩く行為は、コミュニティー全体の意志決定の問題を、一個人の問題に落としこんで、解決したかのごとく振舞っているにすぎない。不健全な行動であり、未来における別の加害者の犯罪行為の容認そのものである。



被害者をいかに裁くのか、ではなく個人個人が「自分の問題」として自省できない社会では、何を規制したところで、犯罪は起こるものである。