たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

実験的人生に於ける「他者」という存在について:「友人」論

鯔の詰まり、私には友人がいない。
其の点を此処で問題提起して、理由の如何などを考えてみた。



一つに「他者」という物を、観察者視点でしか接することができていない。
観察者視点とは、一次元に対しての二次元、二次元に対して三次元からの観察のような物。
他者との接触において、自己を其処に存在させる事がない。
別次元からの観察に終始している。
自己と他者の何方が優位で有るのか等は本稿では論じない。
何故なら、私が一次元で他者が二次元であるのか、他者が二次元で私が一次元であるのか、その何処なのかを規定し得ないからである。一方、何れかを規定しえた次第に、次元の優位性を論じる必要性が生じる。其の論を考察しうる程に十分な情報を集めきれてはいないわけである。
簡便に言うところの、自己を遠い所に置き他者と接していることに終始している。
それ故に、自己の身の上話を他者に話す際においても、其処で何れのように振舞えば良いのか、他者の口車に乗ってみることなど言語道断の極みの如く、歯牙にもかけない。一方で、他者の身の上話に、或れや此れや、と口上を述べる事が有っても、其処に於ける自己は不可視の状態となっている。つまり、他者など他愛も無く、優劣も無く、ただ通り一辺倒な接し方を始終取っている。此れもすべて、「他者」は所詮、観察対象でしかないと思っている点に起因している。

一つに如何に長くとも三年が観察終了の点となる。
観察対象としての他者を「友人」と仮定した場合に於いて、観察が終了した時点において「友人」が終了することになる。そこを一つの「飽和点」とすれば、私にとって三年程度が凡その「飽和点」の来る目安となる。
事実として、私自身が高校で「友人」と規定して観察を行っていた他者は、観察が終了した結果として、私が接触を試みる機会は見当たらない。一方で、私自身が大学で「友人」と規定して観察を行った他者についても、観察が終了したことにより、接触を試みる機会が此れまた見当たらない。
何れに於いても、飽和点の時点で私がまったく別の段階に居ることになり、達成されて来た訳である。また、友人とはそのような契約的扱いを受けるという意味で用いられてはない。故に、私の述べる「友人」とは、一般論における友人とは大きく異なる意味での存在となる。

本稿で何故に問題提起したのか。
事の始まりとしては、とある他者により、観察的人生について初めて指摘されて、その彼より問題提起されてしまったことに起因する。また、何れにしても、今後、論じる機会など無いだろうから、この機会に考えてみようと思った次第である。

傍題に置いて記述した実験的人生という物を此処で改めて述べる。
人生とは自己的視点から壮大と考えてもよい実験である。
故に、他者とは其の実験系に於ける観察材料なのである。壮大は、他者との接触時間に対して、その総和がより大きいと示唆されることに拠る。しかし、そこに差異が長短の差が生じうる事から、自己的視点、つまり他者との接触時間も、その総和も、何れに於いて共通項となる自己からの視点において鑑みれば、壮大と考えても良いのではないか。

壮大な実験場で三年という仕切りを設ける是非について論じたい。
観察を為す前後に於いて、如何なる変化も生じ得ないのか。そして、観察を為すのは自己のみであるか。此等の観点から言えば、他者の観察に飽和が生じうることが有り得るだろうか。詰まる所、観察を為す以前の他者を観察した後に、その他者を観察する必要性の議論が湧き起こる。
しかし、私個人について飽きる性分で有ることが本件の理由となる。
飽きる故、三年という仕切りで観察を終了させてしまう。
昨今、一貫した何か、を重要視する風潮が私個人の視点から観察されうる他者に見られる。
その他者らからすれば、私の性分は害悪に満ちたものであり、私を畜生と見る事は想像に容易い。
勿論、他者観察が一定の期間を経て再開を為すことは幾許の例として在る。故に、必ずしも仕切りの後に、必ずしも観察対象を二度と試みることが無いという訳ではない。



他者として、観察的対象になる他者を「友人」扱いして、観察を実行している。その観察終了には長くとも凡そ三年程度を要する。他者とは流動するものであるが、三年程度で私個人の中で一つの飽和点を迎えてしまう。その連続体が、一つの実験的人生であろうということが結論となる。そして、実験の総括的終了が、私にとっての死となる。