たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

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このところ息抜き程度に「アメリカポスドクの歩き方」というブログを見る。
http://kengg.blog75.fc2.com/

その記事の中で、昨年の11月23日に書かれたものがある。ちょうどアップロードされた瞬間に読んだ記憶がある。

「現役ストレート主義」
http://kengg.blog75.fc2.com/blog-entry-297.html
というタイトルのもの。


これを読んで、すごい納得をした。

記事としては、研究室に所属する学部学生・修士学生がネガティブになる要因として、日本の「現役ストレート主義」が原因なのではないか、という考察をしている記事。

『悩み』というのが基本的に、他者との比較から生じているということ。
その他者は、実在の人物でもあれば、自分の中で描く自己理想像という意味での他者の場合もある。
ここに関して、2つほど思うことがあった。1つは『研究室がすべて』という点、もう1つは私自身のこと。


先日、高校時代の同級生と忘年会をした。
その時に気づいたこと。
「大学院」は聞いたことがあっても、実際どういうシステムなのか、は一般的ではない、ということ。
私が今、まさに「大学院生」で、周りの環境も圧倒的に大学院生(理系)が多いから、いたって普通のこと、それも世間でも常識だと思っていた。しかし、実際はそうではないことを再確認できた。

個人的に、学部学生は大学所属という感が否めない。
しかし、修士学生以上はどちらかと言うと研究室所属という感になる。
授業は一応あるし、それが単位になる。実際には学部学生のような授業形式はほとんどとっていない。
そうなると、必然的に接する人間は、同じ研究室にいる人が大半を占めることになる。
隣の研究室との交流なんかもあるとこはある。しかし「隣のクラスの子」のような感じになってしまう。
だから、『研究室がすべて』となる。
同じ研究室であれば、テーマなども似通ったものになる。
一方で、そこまで進むのに、大学入試・大学院入試を経ていることから、学力は同程度。そして、日本には「現役ストレート主義」があるわけだから、年齢もほぼ同じ。そこまで進むのに選抜試験があり、順位を競ってきた。だから、他者と比較してしまうのは身についた習慣になってしまっているのだろう。

それでもなお勝ち続けているEliteさんであれば、まったく問題がない。ま、それはそれで悩みはあるのだろうけど。
けど、勝者がいれば、必ず敗者もいる。
個人の中で勝手に勝敗をつけてしまっているのだろうけど。それが悩みに繋がってしまうんだろう。


日本には「和」の文化があると言う。
よく言えば、みんな仲良く。悪く言えば、他者には迷惑をかけない。あるいは迷惑をかけないことが美徳
この迷惑とは、ノーミスでいくこと。ミスすれば、それを誰かが補填しないといけないから、ミスするな、ということだろう。
けど、これが何よりも現役ストレート主義の根本にあるのだと思う。

この仲良くというところが曲解されて、集団から外れないことが何よりも重視されている。
その傾向が顕著に見られるのが、体育の授業。これが個人的に大嫌いだった。
現役ストレート主義を子どもに、身体で覚えさせるのが体育の授業。
行動から外れたら鉄拳を与える。それも、体育教員が「楽をできないから」という理由である。誰かが外れたら、管理できないじゃないか、という考えで、自分の能力を自省するのではなく、子どもが悪いと決めつけるから鉄拳が出る。個人的に言わせていただくと、大半の鉄拳系体育教員は能力不足でしかない。
「軍隊」であれば、別にいいと思う。一人の命がなくなることが、他の命、そして国に関わるわけだから、規律が必須だと思う。しかし、曲がりなりにも、平和主義の日本にあって、なぜ庶民にも軍人であることを求められるのかが、わからない。
だから、ずっと嫌いだった。


そんな私は例に漏れず。人生はストレートではない方。
大学に入る前に一年間、浪人をしている。
もうストレートではない。さらに、理系の常として修士課程に進学した。
この時点で、相当、ストレートではない。

例えば、中高の同じクラス(理系コース)はみんな大学に進学している。そして、ほぼ全員がストレートに進学して、浪人生を選択したのはほんと数名だった。だから私が修士課程を修了予定の時点で、院卒であれば社会人一年目、学部卒であれば社会人三年目となっている。把握している限り、博士課程進学しているのは二名ほどいる。

この歩みの時点で、ストレートな人生ではないことになる。
日本の現役ストレート主義は、高校→大学→(大学院修士)→企業。それも、企業一社にすべてを賭けることが求められる。
なぜ、これが求められるか。
ここも体育の授業と同じ構図であると思っている。
つまり、上役が管理しやすいか、しにくいか、という点につきる。
上役にとって、博士課程修了者は、自分の世界とは違う人間だから理解できない。だから、管理を放棄する。鉄拳ではなく、一緒に働かないという選択肢をとるのだと思う。



それでもなお、わかっていながら、博士課程進学を選んだ。

前向きな理由としては、勉強が好きだから。
後向きな理由としては、そもそも一緒に働こうと誰にも思われない人間だったから。いずれ、どこかで出会うかもしれないから、そのときに考えればいい。だったら、大好きな勉強をしようというのが結論なわけです。

しかし、博士課程を選ばずに就職という「現役ストレート主義」に乗ろうとしたのは、やはり比較があった。その当時、博士課程学生にすごい人がいた。そこで比較した結果、私には無理だと判断して、見切っていた。

ただ、そこでもやはり『研究室がすべて』になっていた。
別に博士課程学生なんて日本に腐るほどいてる。(現役ストレート主義からすれば、腐っていると見られてもしょうがないか)
いろんなタイプの人がいることを後々に知った。別に生き方なんて一つではない。それは、一流を目指すのであれば、たった一つしかないと思っている。Work Hardしかない。
けど、今回紹介した「アメリカポスドクの歩き方」では、筆者は自分を「二流」と書いてある。なぜ二流なのか、一流との違いは・・・諸々は日記中に散見される。それを読む限り、二流の生き方なんてのはいくつもある。なぜなら、大半の研究者は二流なのだから。

そういうわけで。一流として勝者になりたいなら、比較するってのは大事なのだと思う。
しかし、二流であるなら、比較をして悩むのは自己にとって損になるだけではないかというのが個人的な意見。