たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

「あけましておめでとうございます」って何なのだ。

「あけましておめでとうございます」って、何が何に対しての「おめでとう」なの?
そう疑問に思うわけです。

新しい一年という点に関しては、数学的に言えば、「自分の誕生日」を区切り点として『一年』というものが定義されるはずなんだよね。
3月1日に生まれた(0歳)の子にとっては、次の1月1日まだ10ヶ月目。ただ、生物学を持ち込んで、母と父の生殖細胞が受精に成功した段階を「生命」の誕生と定義すれば、そこに凡そ8ヶ月を加えて18ヶ月。1年というものは12ヶ月を一つの単位としてまとめたものなのだから、生命として1年と6ヶ月を過ごした段階でなぜ「次の1年」を祝うのか、と。これが、6月生まれになると15ヶ月なるよね、と。

「一年」というものを各個人で変動する単位として扱うわけですか。
それならば「誕生日」ってのは何ですか。
現在の「誕生日」というモノも、生命としての誕生を祝うわけではない点はどう解釈するのか、ってのも疑問に思うわけですが。
(母の胎内から出てくる瞬間=誕生、というのは、自己以外の他者に視覚を通じて初めて認識されるから。その瞬間に、他者によって自己の誕生を決定付けられることに起因して、出生日を誕生日として定義されているのだろう、と)



ここまで書いてから。気づいたこと。
「あけましておめでとうございます」の意に含まれる「一年」は、個人の生に関わることのないものなのではないか、と。個人の生に依存したものではなく、例えば「私は地球にいます」という時の「地球」のようなものなのか、と。
別に「ここ」を地球と呼ばなくてもいい。例えば「こりん星」だと勝手に言ってもいいわけですが。それでは他者との認識でズレが生じる。自己にとっての「こりん星=ここ」であっても、他者にとっては「こりん星とか言い出して、こいつイタイな」としかならない。
このズレをなくすために、全体として「地球」というワードによって、「ここ」を認識するのと同じ作法で、「一年」というワードを1月1日から次の1月1日までと定義しているのか、と。

日付というもの自体が、そういう部類の一つで、それを前提として正月というものがあるわけだから、別に個人がどうこうという問題ではないのか、と。


では、そうして定義された一年の区切りで、なんで「おめでとう」なのか。
新年、が主語になるのだろうか。
ここで思うのは、「年の誕生日」なのか、と。次に定義される「年」の誕生日だから、その誕生日を祝うのか。では、その「年」に向かってではなく、他者に向けて「おめでとう」なんて言葉を吐くのだろうか。他者に向けてではなく、他者と共有されている「年」に向けて、「おめでとう」という言葉を投げかけているのだろうか。
「年」というモノの実体は、人類同士が話す場に生じるモノだから、それに対してお祝いの言葉を投げかけているのだろうか。

つまり「あけましておめでとうございます」によって「おめでとう」と伝えているのは、その被伝達者との間で共有される「年」そのものに対して、であるのか。
しかし、次に「今年もよろしくおねがいします」と口上が続く。いきなり「年」のことが消えて、被伝達者との間のプライベートな領域へ入り込む。「おめでとう」と祝した彼はいったい、どこに追いやられたのだ、となる。そもそも「年」の誕生日を祝ってあげていないのではないか、となる。


いったい我々は何に対して「おめでとう」なんて言っているのだ。
そこに被伝達はない、と言ってしまってもいいのかもしれない。
この言葉自体は日本人の曖昧にする感覚からくる言葉なのではないか。
「あけましておめでとうございます」なんて言って、何が何に対してのおめでとう、なのかを明確にすることなく、曖昧さを美徳とした「曖昧な日本の私」から発せられる言葉なのだろう。


というのも、Happy New yearという口上は理解できる。
相手のHappyを祈っている、と直接言っているから。
こっちの方が断然、しっくりとくる。



なので。
「あけましておめでとうございます」という曖昧な言葉を私に向けていただいた方にはもれなく「何に対してのおめでとうなのですか?」という質疑を用意しておく。そこで議論を深めて、「おめでとう」の向けられる対象を研究したいと思う。
予測では、「何もない」という結論が見えているのだけどね。

そうなった時に「何もない」ところにおめでとう、なんて言葉を発するような虚しいことだけはしたくない。だから、Happy New yearを使う。至極単純に相手の幸せを祈っているだけだから。