たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

スタンフォード大学で感じた「日本人」について。

先日から、スタンフォードにて、シンポジウムに参加している。
そこでの雑感を脈絡なく書いてみる。

くそ広い故の無限の選択肢

宿泊先が、スタンフォードから徒歩20分~60分。
この時間幅は、大学がめちゃくちゃ広いから。
中を通る無料のバスMargueriteが何本も路線がある感じ。
ついでに、その路線について一応、bus stopごとに路線図はあるのだが、当のアメリカ人ですら読まずに、駅で待っている人や運転手に聞いている。めちゃくちゃわかりにくいから。
(※そのせいで、一人の女性に聞かれて困りました。Sorry, i'm a stranger.と返答せざるを得ない。けど、逆に馴染めていたんだな、とちょっと嬉しかったです。)

広いのはいいのだが、自分が何を求めていて、どうしたいのか、言わないと生きていけない要因の一つがこれなんだろうな、と思った。選択肢がめちゃくちゃある。

逆に日本は本当に狭く、1つの目的地には1つの選択肢しかないようなもの。そういう社会環境で生きると、基本的になんでも1:1対応させる。だから、すべて言わなくても1点通じるだけで、答えが出てくるのが普通になっているのだと思った。

車社会。だけど、歩行者最優先という優しさ。

くそ広いスタンフォード大学だが、それゆえにいたるところに駐車場が完備されている。
道で車じゃない通行人は、ランナーか自転車乗りしかいないくらい。
ただ車の数はめちゃくちゃ多いのだけど、必ず歩く人を優先してもらえる。
歩行者信号が赤でも譲られることが何度もあった。

日本だと、車乗りと目線が合わない(運転手が通行人に気づかない)ことがかなりの頻度で生じる。しかし、こちらだと必ず目線が合う。そして、こちらが止まると、必ず譲られる。日本だと、止まると車が先に行ってしまって、譲られることがめちゃくちゃ少ない。下手したら、車が優先だろ、みたいな態度のドライバーが多数いる始末。

そんな歩行者最優先の国だが、歩行者信号が赤になる時間がめちゃくちゃ短い。6車線だと、青に変わって渡り始めると、半分すぎくらいにはもう赤に変わっているくらい。小さい子ども連れのおかあさんなんて、子どもを抱っこして走っている光景を3回くらいは見た。
だが、歩行者信号が赤になっても渡る人がいると、車はいっさい動かないとこはすごい「できている」と感じた。日本人と違って、車について成熟しているのか。そもそも日本というクソ狭い国に車という乗り物が不要なのではないか、と。

非観光客扱いは、人種のサラダボウルだからか

行った場所は非観光地であることはわかっていた。
実際にサンフランシスコ国際空港着の際に、多数いた日本人を、Palo Alto(スタンフォードのある街、むしろスタンフォードのためにある街といっても過言ではない)に来るといっさい見なくなった。
だから、日本人って浮くんじゃないの?とか薄々思っていたのだが、一切そんなこともない。飯を食うのにも困ることもないくらいには、たぶん街では受け入れてもらえていそう。あと、今は奇異の目線では見られていないはずである。気持ちとしては、観光客ではないから。

ただ、逆にこっちの文化に慣れる前(来た初日)のコミュニケーションで、相手にいらだたせたな、と感じることがあった。飲食店の料金支払いの方法なんかで。イメージとしては、すき家は食べたあとにレジまで払いに行くのに、吉野家はその場で払って、松屋は券を買う、みたいなのを知らずに過ごす感じ。
旅行客がいないため、店に来るのはそれこそ地元の人だけ。だから、そういう部分で変な行動になってしまって、「この人だいじょうぶ?」みたいな奇異な目で見られたり、軽くイライラされたり・・・。

それでも馴染めたのは、肌の色、体型、どこの地域系なのか、など一人ひとりが本当にバラバラで、たぶん地元民は「アメリカ人」という点しか共通点がないくらいだから、だと思う。
そんな中で感じたのは、Japaneseはもう数年で価値がなくなりそうだな、ということ。

同じアジア系でも、中国・韓国系の人が、地元民から、シンポジウム参加者まで含めて、めちゃくちゃ多い。しかも、かなりアグレッシブ。ずっと中国語で会話していたのに、ポスター発表になった途端、完全に英語しか使わない。昨年、同じシンポジウムが日本でもあったのだけど、参加者の大半が日本人で、日本語しか使わないに等しかった時とくらべて、かなりの差があった。
さて、ポスター発表とは、ポスターを貼って、その前で話聞きたい人がきたら説明して、議論して、という流れなので、説明や議論している間にも、他の人が来る可能性がある。そこで使っている言語が英語じゃなかったら、何をしているのかまったくわからない。
だからこそ、英語を使っていかないと、注目を浴びないわけである。

そのポスター発表も、日本のポスター参加者が12人くらいで、学生が5人くらい。なぜ日本人学生を数えられるかと言うと、スーツをきちんと着ているからである。どう考えても目立っている。日本の学会はすべてスーツ必須なので、その名残なんだろうけど。

一方で名前が中国系の人たちは35人くらい(半分程度)いて、ほぼ全員が揃って留学生。そこに圧倒的な差を感じた。

今でこそ過去の遺産で、日本人招待講演者がいるシンポジウムになっているが、数年で日本人招待講演者は消えていきそうだなー、というのが感想。そもそも登竜門となる、ポスターにすら来ていないから。

と、わざわざ「日本人」というのを見るために人種について書いてみたのだが、いちいちそういうの気にしていたら生きていけない(面倒くさい)から、もはや気にしなくなった。むしろ、どういう研究バックグラウンドがあって、どういう研究したいのか、を知るほうがよっぽどその個人を知れるのである。



学会のスーツ着用に関しても、個人的にはかなり疑問を感じている。
別に見た目をどうしようとも、研究内容なり結果なりには響かないわけで。
招待講演者とかだと、礼装的な感覚でスーツを着るならまだしも、一学生がそこまでする必要あるのかしら、と。

この「見た目」から入っちゃうあたりは、一つ『日本人』という外見的特徴を共有した単一民族からなる国家で生まれた点が理由としてあるんじゃないか、と考えている。外見的特徴が同じならバックグラウンドが同じ日本人である。それでなければ、非日本人である。と判断した上でコミュニケーションをとっているのではないか、と。

だから、スーツという外見的特徴が同じならば研究者で、そうれなければ非研究者だと判断していることに基づいているのではないか、と思っている。

それを良い、悪いとは言わない。
だけど、それは多様性を認められないことと同義じゃないのだろうか、と思っている。
しかも見た目がすべてではないのだ。
こっちでオーラル発表を聞くときに超絶、態度が悪く、貧乏ゆすり激しい人がいた。しかし、話すとめちゃくちゃおもしろい人で、招待講演者の研究についても「~が悪いからクソだ」と平気で言っている。見た目通りの行動ではあるが、別に悪いわけではないと思った。



そんなアメリカですが。料理がどれもこれも大味。
しかし、それをめちゃくちゃ受け入れられる自分を感じました。