たけちゅさん宅

たけちゅが思ったこと、したこと、つれづれなるままに

再現性とは何か。

再現性とは何なのだろうか。

人間は現象のすべてを観察する術を持たない。
ある関数fで表現できる現象について、f(a)を観察できても、その点の大きさを無視していてf(a+⊿a)とf(a-⊿a)のうち片方のみを観測しているに過ぎないかもしれない。点の大きさ|f(a)|をどれだけ許容するか、をきちんと定義した上でないと再現性というものは担保されないのではないだろうか。

再現性を規定する関数の大きさ|f(a)|をどうやって表現すればいいだろうか?

人工知能は人を殺しうるか

人工知能の進化は人類の終焉を意味する
と、かのホーキング博士は語ったのは2014年だった[1]。

人工知能を研究している者にとっては、暴走するなんていうのは妄言なのだろう。
彼らは感情をもつ人だから殺戮=暴走(=抑えるべきもの)と捉えているのかもしれない。
しかし、殺戮=暴走(=抑えるべきもの)とならないことを、大量殺戮犯が示している。
感情がなければ、進行を妨害する人を轢死させることはきっと容易いだろう。

だが、人工知能ほど高度ではなくとも、単純な暖房器具ですら人を殺戮している[2]。
過失によって人は簡単に死んでしまう。人は思っているほど強い生き物ではない。
人は強いという思い込みの発露が「人工知能の進化は人類の終焉を意味する」という言葉になっているだけに思う。

終焉するならしたっていいじゃないか、と思う。人類は万能ではないことに、成熟した木に素足で思いっきり蹴りを入れると痛みを感じることで簡単に気づける。


[1]ホーキング博士「人工知能の進化は人類の終焉を意味する」
[2]http://www.nite.go.jp/data/000005134.pdf

通勤ラッシュの社会学 -なぜ急ぐのか-

ハイアーに乗る資本家の速度に合わせるために、労働者は急ぐのではないだろうか。

通勤時間。ターミナル駅ではスーツ姿で急ぎ足の人たちにあふれている。
それを見て、ふと思った。
なぜ、それほど急ぐのか?
あるいは、給与をもらう身分である限り、急いでも急がなくても、その給与の増減はほぼない。つまり、自らに無意味である。同時に、社会的インパクトという点においても急いでも急がなくても影響は少ない。急いだところで、どれほど社会にインパクトを与えられるのだろうか。

一方で、オフィスビル街に目を転じると、ピカピカに磨かれた高級車が乗り入れ、いかにもな重役を運んでいる姿が見受けられる。

これらを比較して、ふと思ったことが。
ドア to ドアで運ばれる経営側の速度に合わせるためには、電車を使い主に徒歩の労働者は急がざるを得ないのではないか、と。

ヒトはそこまで綺麗じゃないよね、センテンススプリングさん。

暴力団排除条例」「元少年Aの手記」「芸能人の不倫」のニュースを見て、ふと思った。

ヒトはそこまで「綺麗」なモノなのか。

暴力団排除、手記出版停止への訴求、不倫した芸能人の活動停止などから、それらがないことが「綺麗」であって、それらがあることが「汚濁」だと定義する。


「元少年Aの手記」がニュースになった時に思ったことだが。大きな本屋に行けば、アングラ本コーナーがある。「元少年Aの手記」で顔を真っ赤にして反発する人たちが見れば、卒倒してしまうであろう代物が眠っている。
だが、それらを読むことができるのは、反発する集団にとっては見えていないからに他ならない。道端で吐かれた痰をいちいち確認しないように、いちいち見ない。ただ、そこに眠っていたであろう本を表に引きずり出して反発しているだけではないだろうか。。。
道端に痰を吐いた瞬間の写真を出して、「これは良いですか?悪いですか?」と問えば、十中八九「悪い」と言うだろう。(※オッサンが吐く痰に興奮するような変態を除けばだけど)その程度でしかない。わざわざ言うことか?という。
(※と言うと、遺族が〜と反発する清廉潔白な人たちがいるのはわかっているので、彼らに言いたいのは大きな本屋のアングラ本コーナーに行ってみたらいい。)


人間は汚泥の塊でしかない。それを態々「綺麗」にする必要があるのだろうか。
あるいは、時折目に入っただけの痰に反発をしてみただけで、普段は社会を見ていないだけなんじゃないだろうか。よく見たら「汚濁」でしかない。「汚濁」に見えなくても、それを「汚濁」と思う人間には「汚濁」なのである。

神は死んだ。仏も先祖も。

自らがこうしたいという思いに従っていくのではなく、神だとか仏だとか先祖だとか知覚できないモノに頼ることが疑問に感じるようになった。


年明けの日本と言えば、神社に行き、参拝をしたり、おみくじをしたり、神に祈っているのだろう。あるいは、キリスト教では年末のクリスマスミサでしょうか。同じように神への賛美がある。
2015年を見ると。イスラム教過激派の一部がパリでテロをした。ここでも、やはり神が出てくる。神の命の下でテロをしている。

神の命に従って自分の運勢について思い馳せることと、神の命に従って人を殺めることがまったく同じ次元の話に見えてしまう。


ニーチェは「神は死んだ」と言った。
キリスト教観での信仰の否定、宗教は単なる弱者の傷の舐め合いにすぎない、という批判。
そして「神」が何であるのか、を語り始めると、そのイメージは人によって異なっている。元来「神」への敬いのために皆が教会に行き、同じ神にお祈りをしていたが、その統一された「神」が人によって変わってしまっていては、いったい何に対しての祈りなのか。
そういう解釈をしている。


まさにそのことを感じた。
嫌なことがあった時に、「あの時のおみくじで~だったから」と言うことができる。けど、それは自らが弱者であって現実を受け止められず、何かを原因にして逃げているだけにしか見えない。
そして、おみくじを木にくくりつけるたくさんの人がいるが、彼ら一人ひとりにとって神様が異なる。同じ神様に祈っていたはずなのに。



世界平和を願っている人がいるとして、その人が参拝するのは「神」である。一方で、その人が平和になってほしいと思う対象の一つが「神」の命で乱されている時点で、矛盾している。

きっと、そういうことを何も考えない人間にとってはどうでもいいのだろう。

言葉の大切さ。

言葉の海を、ぼくは処理できない。

イメージできないものを受け付けなくなっている。

そう思っていた。



しかし、そうではない部分があるのだと思った。

発信者には「常識」だからと省いたことが、受取手には「常識ではない」から理解できなくなっている。

その分野にどっぷり使っていると、周りが見えなくなっているのだろう、と思う。



修士学生の発表を見て感じた。

理解しやすい発表は、「常識ですよねー」と言って省いたりしない。

そんな誠実さが大事だな、と。